利府は江戸時代の宿場町。
「ずいぶんと賑わったものだった」
と
古老から聞かされましたが、
一体どれくらい
賑わっていたのでしょうか??
空から利府の姿を見てみよう!!
当時米軍が空撮したとされる
利府の写真が残っておりました。

ここの現在地に
もう少し近づいてみましょう!

上空からの写真でも
建物があるのが確認できます。




イタリーくんが、
昔の写真の場所…
今どうなっているか?
調べてくれたようですよ!




宿場町 利府 どんな商売があったの?



人々が通う
なつかしい
利府の暮らしと町並み
● 酒製造業・1軒
● 醤油味噌製造業・4軒
● 醤油味噌小売業・2軒
● 米屋・3軒
● 呉服雑貨商・2軒
● 菓子製造小売業・5軒
● 菓子小売商・6軒
● 質屋・1軒
● 旅籠屋・9軒
● 飲食店・4軒
● 竹屋・1軒
● 豆腐屋・1軒
● 麺粉製造小売業・3軒
● 八百屋・1軒
● 煙草雑貨商・1軒
● 雑貨商・4軒
● 木材屋・2軒
● 灰屋・2軒
● 遊芸稼人屋・1軒
● 古着屋・1軒
● 文具店・1軒
● 五十集屋・1軒
● 理髪業・1軒
● 水車臼業・2軒
計 62軒
さすがは、宿場町 利府
旅籠屋 (はたごや)
が
最も多い 9 軒でした。



地名から読みとる利府の文化
さてこの利府町は
9つの村が集まって
できたものだと言われております。
地名は歴史です。文化です。
一つ一つの地名の由来を
解説していきましょう。

利府村役場の外観
明治22年 (1889) 4月1日
利府村 誕生 (旧村 9村)
(森郷・加瀬・神谷沢・菅谷・沢乙・飯土井・春日・赤沼・野中)
戸数 563戸 / 人口 4129人
地図で見ればよくわかるが、森郷は利府本郷の北に接し鷹戸屋などの山々、黒川郡との境まで含んでいる。この地は豊かな大森林であったことから森里と呼ばれたものであろう。古道、奥大道はこの森の中を通っていたのである。
しばらく前までは在加瀬とも云われた現在の加瀬沼公園のあたりはかつて加瀬村と云われていた。町加瀬(現 中央3丁目)もその一部であった。実は加瀬は加難村(かなんむら)が正しかったが、安永風土記によれば「伊沢家景が岩切村高森に住んでいた頃は加難村と書かれていたが、いつの頃からか加瀬村と書くようになった。」と記されている。これも表記上の単なる誤りというのでなく昔、この地を安加瀬(あかせ)と言われていた名残が加瀬という地名となったと考えるべきだろう。
神谷とは本来、紙屋を当てるべきだと云う人もあるが神谷沢は「ここに神が存在する谷と沢である」と土地の人が信じたことによる地名である。それを、実際に多賀城符の紙をこの地で作ったとも考えられる。ちなみに沢乙は加茂川があり神谷沢(紙屋川)と呼ばれる所があるが、これは京都の加茂川の近くに宮立の製紙場(紙屋院)があったところと似た地形でもある。何はともあれ、熊野神社があることからも、かつては相当栄えた場所と考えることができる。
昔の奥街道は山際を通っていた。この地は、歌枕として知られた十符のスゲヌマであったと考えられる。ここでとれる菅薦(すがこも)が大変よい物だったので京の都でも使われたとも伝えられている。菅の生い茂った場所を全国的に菅谷と呼んでいる。人々がこの草を用いてむしろや笠を作った証拠として笠菅沢と云う字名が現在も残っている。
沢乙は清流がこんこんと流れる音を表したもので、市川の支流である加茂川、砂押川の上流に位置している。沢音が字で書く時に沢乙と書き換えたと考えるべきであろう。ここには塩釜神社の末社の小刀(おと)神社がある、この本当の呼び名はオト神社なのだが土地の人はコチカラ神社と云っている。オトとは雄鋭、袁刀と書き鋭くゆっくりと曲がった刀を祭った神社ということになり、このあたりでエゾと激しい戦いがあった名残でもある。
飯土井は田の中の小山があり、ここが、かって九門長者屋敷があった所で、式内神社、伊治佐比賣神社が祀られている。悪玉御前の物語もここが舞台であるから、利府の今日があるのも、ここが中心で発展したと考えるべき場所である。では何故、ここが中心となったかといえば大昔ここに温泉があったからで、道珍坊、沢乙温泉などより遥か昔、温泉町だったからである。飯土井の漢字からは思いもつかないがイイドイは本当は飯豊が正しい当字で、温泉の事を意味する。だからこの地を掘れば温泉が、それこそ湯水のように流れ出し、新しい別の利府町が拓かれる事は間違いない。
奈良の春日神社と関係がある。この春日神社は平安時代(843)に按擦使として多賀城に来て藤原富士麿が、今の上野原に建設したのが、野火で焼けたので(1671)四代藩主の綱村が今の春日に移したと云われている。それは春日が利府の中で、春のかすみが立ちこめて物がかすかに見える、穏やかな土地であったからで、文芸を愛した綱村らしいと考えるべきである。これと同じように仙台の加茂神社も昔は利府町にあったのを都合で移したものである。
染殿神社の側に沼がありますが、これを赤沼と云う。ここを赤沼と呼んだと云えばそれだけだが、土地の人は安永風土記によるところの「昔、高貴な女が、この土地で産気づいたが誰も宿を貸さなかったので、仕方なく経塚(きょうづか)の所で安産し、その時のエナや衣服を沼水で洗ったので沼が今でも赤いのだ。それで赤沼という地名になった」と云っている。実は、この地帯が多賀城の瓦を製造したことから、赤土の産地なので赤沼と云うなど、それなりの考え方がある。一方、ここは、刈安草(カリヤス)の産地であり黄色の染料で染め物をした、だから染殿神社があると説明する人があるが、黄色の染め物は多賀城創建の頃は下級官の着物だったことから考えて赤沼の土を使って染めたのが正しいと考えるべきだとの説が今では有力になっている。
野中の本当の意味は町を造るとき、そこを中心とし、陣地としたことの意味で、政宗が仙台城を造るとき、現在の一番町サンモール付近から町並みを造り出したことから野中神社が置かれた事でも知られている。利府の野中は築城とは関係無く、その地形から名付けられたとも考えられるが、このあたりは塩釜神社と深い関係があって、神社に関係がある人が住み、神社の神馬を葬るなどしており、神馬の塚もある。




出典:利府村誌・町誌,
屋号で訪ねる、なつかしい利府
利府町郷土史会論集
(吹き出し文章はフィクションです。笑)
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