【1200年前の京都から利府に伝わる染物文化。】椿の葉と刈安草と、利府伝説のお姫様の物語。


椿の葉を燃やし。

 

その灰で作った培養液

刈安草を煮て作った培養液に

 

布を浸すと…。

鮮やかな黄色になると!!

 

 

しょうちゃん
鮮やかな黄色ですね!! 梨色ですね梨!
きっかわ
綺麗ですよね..。梨をこれで包みたいです。笑

染物のやり方と歴史の話。



本日はこの、

刈安染め(かりやす)のやり方と。

 

染色技術が利府に伝わった

「 歴史的背景 」

を説明したい。(一説)

 

 

材料はこの2つ!!

椿の葉 × 刈安

 

である。

 

 

刈安染めの手順

 

① 刈安をとる

山地に自生するイネ科の多年草。高さは80 〜 100cm。全形すすきに似ているが、穂の数は少なく、通常3 〜 5本の枝穂である。茎や葉脈などに薄い青色がついており、染色用には8 〜 9月頃に刈り取るのが適期。

 

しょうちゃん
利府村誌・町誌 情報だと「利府の番ヶ森を中心に赤沼付近に自生する」との情報がありました!!
きっかわ
先日、赤沼界隈にはいきましたが、ほとんどが「すすき」でした。今度番ヶ森の奥地を探ってみようかと思います!

 

② 乾燥する

風通しのよい、やや日陰で干す。乾燥したら2 〜 3cmぐらいに細かく刻んで保存する。保冷は紙袋やダンボールなどに入れておく(ビニール袋は不可)。穂の部分と茎の部分を分けて保存した方がよい。

 

きっかわ
今回は刈安草が見つからず、市販の乾燥刈安で代用を!!
しょうちゃん
普通に売っていることにびっくりなんですがwwww

 

③ 煮出し

煮出す量は染める生地の2倍の重さである。容器に水を入れ、やや暖かめの頃から刈安を入れ、沸騰するまでは強火で、沸騰後は中火または弱火で1 〜 1.5時間ぐらい煮出す。布でこしてできた液が「染液」になる。

 

おおみやさん
この茶色の煮汁が鮮やかな黄色を出すなんて想像できないわ。

 

 

 

 

④ 椿で培養液をつくる

椿の木、根、その他を燃やし灰を作る。生の葉を燃やすと音を立てて燃え、これが特上の灰になる。出来上がった灰に、一度沸騰した湯を80度位にさまし、その湯を加え2、3日、そのままにしておく。すると、紅茶化した上澄み液が出来上がる。それをゆっくり取り出しペットボトルなどで保存する。

しょうちゃん
極上の灰作りなんて、、まるでDA○H村の企画っぽいですww

 

 

この行程を経て。

2種類の染色液が完成したと!!

 

刈安を煮た煮汁

椿の葉の灰をこした培養液

 

しょうちゃん
刈安の方は茶色だっ!! ってのは分かるんですが、椿の方、綺麗ですねー!!
きっかわ
灰の時は想像できないクリア加減ですよね笑

 

 

染色液の完成、染め方開始です!



染色液も完成し。

いよいよ染め方に入ります!!!!!

 

 

 

 

 

① 布を切る
しょうちゃん
今回はタオルに染めます!

 

② 刈安染色液に浸す

 

きっかわ
これだけでも黄色なんですが…薄いです!

 

③ 一旦、水洗い。
しまこしさん
刈安の方を流して、続いては椿の方に!どう変わるんだろう…

 

④ 椿の染色液に浸す

 

くらたさん
おお!! 黄色部分がつけた所ですね!! こんなに綺麗に染まるんですね!

 

⑤ 刈安染めの完成である!
しょうちゃん
吉川さん、何やら売れる匂いがしてきましたよwww
きっかわ
ここにあの、「梨ハンコ」を押す予定ですww
おおみやさん
このはんこのことねっ!!!!!!
きっかわ
です!!!

 

くらたさん
動画だと変化が分かり易いですね♪

 

 

 

 

 

様々な工程を経て..

いよいよ完成である。

 

 

しまこしさん
草を乾燥させたり煮たりと、なかなか大変な工程ですよね…

 

 

しょうちゃん
どの部分を縛るかで模様つくれるのも楽しいー!!

 

京都から伝わる染物技術



さて、この染物の技術。

一体誰がこの地に伝えたのか??

 

 

過去の文献を見ると…

 

京都から利府に

 

伝わったものだと

言い伝えが残っている。

 

くらたさん
きました、吉川さんお得意の利府伝説ですな!!!
しょうちゃん
そして伝説へ…。

 

 

 

話は古代の利府。

今を去る約1200年前に遡る。

 

 

仁寿2 (852)年 in 利府

 

染殿神社に伝わる。

「とあるお姫様の物語。

 

染殿神社 ナビ

しょうちゃん
染殿神社にそんな伝説が…確かに「染殿」って染物に関連してますよねきっと。名前だけ聞くと!
おおみやさん
利府葉山の入り口の交差点のところにあるのね!

 

 

 

お姫様が京都から利府に視察??

仁寿2年(852)年 3月、時の摂政藤原良房の娘(明子:分徳天皇の后)が身分を隠して京都から東への旅をして利府赤沼の地まで辿り着き、この丘陵地帯の民家に「一夜の宿を貸してほしい」とお願いをしました。しかし、立派な着物をまとい、あまりにも美しい姿の娘を怪しみ、誰も宿を貸すとは言えないでいました。

 

 

 

身重の身体で利府で一夜を過ごす。

京都から陸奥国に辿り着いたものの、宿がなく。明子は困り果ててしまいました。しかし疲れ果て、しかも身重の姿の娘を見かねたある親切な老夫婦が、情けで近くの経塚の上のお堂一夜の宿をとるように教えました。明子は旅の疲れを癒す間もなく、その晩、そこで何とか無事に出産する事ができました。

 

 

 

利府町 赤沼の由来とは。。

その時、汚れた産着を近くの沼(現在の赤沼)で洗濯したところ、沼が赤く染まったと言われている。実は、この地帯が多賀城の瓦を製造したことから、赤土の産地なので赤沼というなど諸説ある。一方、ここは、刈安草(カリヤス)の産地であり黄色の染料で染め物をした、だから染殿神社があると説明する人があるが、黄色の染め物は多賀城創建の頃は下級官の着物だったことから考えて赤沼の土を使って染めたのが正しいと考えるべきだとの説が今では有力になっている。

 

 

 

染物技術を利府へ伝える。

その後、初めは怪しんだ里人も玉のような赤ん坊を育てる若きこの女性に協力して、陽当たりのいい場所に草葺きの仮屋を建てたり、食事や赤ん坊の世話を手伝いました。母親はそのお礼に暇を見つけては里の婦人に針仕事や染め物の技術を教えました。

 

しょうちゃん
このタイミングで、利府の人々は様々な技術を教えてもらったんですね!!

 

利府に来て2年、京都に旅立つ。

 赤沼での生活が2年を過ぎた頃、親子と里人との信頼関係はますます厚くなっていました。そして、いよいよ都へ旅立つことになりました。さて、この母親がなぜ身重の体で、この地まで来たかというと、文徳天皇は内政には尽力していましたが、身体が弱く、地方の巡視はあまり行いませんでした。そのため后である明子の父 藤原良房を摂政とし、様々な任務を任せていました。また、明子にも陸奥地方巡視の任務が与えられ、明子は身分を隠し、この地に赴いていたのです。その後、明子は赤沼の里人に大変愛され、里人は離別の情を表し、明子が都に帰った後に住まいとしていた丘にお堂を建てたとのことです。

 

しょうちゃん
思えば、このあたりは大昔に多賀城が造られた日本の重要な地点でしたね!
しまこしさん
そしてあの娘(姫)の実家のお屋敷は都で有名な「染殿」と云うお屋敷だったそうですよ!
しょうちゃん
だから里の人達は染殿神社ってつけたのかな…

 

 

利府の歴史物語。

他にも書いております!!

 

【樹齢400年の利府公孫樹伝説】枕の下にイチョウの葉を置くと綺麗になれる!? 利府城主 留守政景からの言い伝えとは?

 

【1000年前の大津波の歴史】多賀城から利府に流れる、最古の建造物の物語。

 

[利府を走る鉄道物語] JR東北本線 利府駅から廃線跡を巡る旅。

100年続く農業とは、石巻の海釣りから始まる利府梨物語。

 

きっかわ
是非読んでみてくださいねー!!

 

出典、第1部 利府いろは歴史と風土記 利府伝説の3姫
いつも暮らしのそばに利府の椿
(吹き出し文章はフィクションです。笑)

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