およそ400年前、
利府城の麓に植樹された
公孫樹(いちょう)の樹を
ご存知だろうか。

当時の利府城主
留守政景が
我が娘のために
植樹したそうですよ!!


400年前からの言い伝えとは?
そして…この大イチョウには、
こんな言い伝えが残っている。
この木から取れる葉を、
枕の下に置いて寝ると
「娘が美しく育つとのこと」



当時の利府城主
留守政景が
「娘が美しくなるよう」に、
と願いを込め
育てた大イチョウ
しかし…。
400年前の
時代背景を考えると、
美しくなってほしい!!
それだけの理由だったのかと
疑問が残ります。


世は動乱の時代
400年前の時代背景
400年前は室町時代、後期は戦国時代とも呼ばれた動乱の時代でした。しかしイチョウの苗木を城の麓に植え、「娘が美しくなるように願った。」親が子を思う気持ちはいつの世も変わらない事が伺えます。



利府城とは。
標高88mの自然地形を利用した山城です。岩切城跡と同様に山を削り、平場を造り、そこに施設を設けた守り重視の館跡です。利府城が築かれた時代については、はっきりと分かっていませんが、留守氏の家来であった村上氏が築いたと考えられています。
なぜ、利府城は滅んだのか。
時は、永禄12(1569)年、留守氏内部に家督相続問題が起き、留守氏の血筋を守ろうとする立場にたった村岡氏と伊達政景(伊達晴宗の三男:政宗の叔父)を養子として迎え、伊達氏の勢力下に入ることにより留守家安泰を図るべきとする伊達派とが対立しました。この時、村岡氏はこの城にたてこもり戦いましたが、破れて滅亡したと言われております。
伊達政宗の右腕となり活躍。
その後、永禄13(1570)年に、政景は岩切城から利府城に移り、地名を「村岡」から「利府」に改めたと言われております。また、同時に「村岡城」と呼ばれていた城名も「利府城」となりました。留守政景は、天正18(1590)年に、伊達政宗から黒川郡大谷保に隠退を命ぜられるまでの約20年間、この利府城を本拠地としました。その間、政宗の右腕となって活躍した事は有名です。その後、留守一族は、政景の長男(利府生まれ)が岩手県の水沢城主となって活躍しました。この水沢からは高野長英など様々な偉人が輩出していますが、それらの人々は利府から移り住んだ人々の末裔なのです。


地名が、「村岡」から「利府」
に変わった理由とは?
昔、利府町の湿地地帯には良質な菅草が自生し、これを使って「菅薦 すがこも」という敷物が作られていました。網目が10筋あることから、「十符の菅薦」と呼ばれ、都の歌人たちが、陸奥の歌枕として使っていました。そこから「十符の里」とか「十符の浦」と呼ばれるようになり。伊達政景が留守家に入り居城を利府城に移してからは「十 と」が「利 と」になり「符 ふ」が「府 ふ」に変わったと言われています。

利府城の現在の姿
城跡は現在
「館山公園」と名前を変え。
春は桜、秋は紅葉と。
利府町民の
憩いの場となっています!



大イチョウは何処に?
さて、ここからは。
気になる気になる….
大イチョウの場所を
ご紹介しよう。

そしてこの大イチョウは、
大変わかりづらい
場所にあり。
古びた枕木階段の先に
あるのである。






枕の下に入れると美しくなる伝説。
冒頭でもお話したが、
この木からなる葉を
枕の下に置いて寝ると
美しく育つと….。
そう言い伝えが残っている。
気になって仕方がない、
そこの貴方。
今夜、
そっと枕の下に葉を起き、
試してみては
いかがだろうか。笑



出典、語りによる「利府」・十符の里のさんぽみち
利府町の名木・古木
(吹き出し文章はフィクションです。笑)
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